Ryo HAMADA
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記憶のなかの視覚 >>
杉田 敦(美術評論家)

それは、白いもやのようなもののなかに包み込まれている。包み込まれているものの姿は、もどかしい程度にしか視えてこない。やがてその視線をさえぎる何ものかが、静かに眼球のなかにまで入り込んでくる。あるいはそれは、視神経を通じてさらに奥へと浸入してさえいるのかもしれない。何か不透明なものがべったりと意識に貼りついている。けれどもしばらくすると、頼りなげなそのシルエットに見覚えがあるかもしれないという想いが頭をもたげてくる。そしてそれは、やがて確信に変わっていく。確かにそれは、いつも視ているものに違いないようだ……。
視覚というとき、通常それは、ある種の明晰性を意味する。それは、ある光景の何かを知らせるのであり、またある人物の何かを語るのだ。浜田涼の作品を支配する視覚は、こうした明晰性につながるいわゆる視覚ではない。むしろそれは、そのような意味での視覚からできるだけ遠ざかろうとしているかのようでさえある。視覚芸術というかたちをとりながらもそれは、視線を散乱し、漠然としたもやの彼方に視せるべきものを連れ去ってしまう。だが、視せるということに抗うようなそれが、静かに何ものかを視せているのだ。しかもそれは、おそらくは、誰もが、日々視ているはずのものだ。記憶のなかに浮沈する断片的な風景と曖昧な表情。リアルタイムに経験される視覚の下に、うず高く堆積している記憶としての視覚。それは、驚くほど解像度が低く、細部を欠き、そしてまた中心も欠いている。浜田が見せるのは、そうした過去の記憶としての風景でありそして人物なのだ。曖昧なもやの彼方に隠された風景や、苛立たしくさえあるくもりのなかにディテールを失っているポートレート。人々が記憶のなかから呼び寄せ、視ている光景や表情はそのようなものに過ぎない。白いもやは、その事実を突きつけてくる。リアルタイムの視覚に拘泥するあまり忘れ去られてはいるものの、瞬間ごとに積み上げられ、また参照されている視覚風景。けれども、まぎれもなく人々は、むしろそのなかにこそ生きている。

2001





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